読書・観書「酔古堂剣掃」編

寝しなに歴史モノや推理小説をよく読んでいた今は亡き父、伝記などが好きな母(健在)。そして、その血を受け継ぎ、本を読む事を苦としない姉・・・。

こんな家族の中、私だけは読書が嫌いだった。それもほんの10年くらい前まで。

家族のそんな姿を見ても何も思わなかった私だが、あるきっかけ(それも消極的な)から本を読むようになり、それからというもの、読書が大好きになった。今では積極的に暇を盗んでは本を読むようにしている。

読む本のジャンルには節操がない。気分次第というやつだ。

気分次第ではあるが、やはり一番好きなのは精神、無意識層に染み渡る東洋的思想にあるのだと痛感する。特に、長い歴史の中で読み継がれ、脈々と今日まで活きている古典は学ぶべき所が多い。これら書物は言わば「私より先に生きてくれている」のである。これをよく読観することは大変気持ちが引き締まるし、実に心地よい。中には、その時おかれている自分の状況から「はっ!」とさせられるものも多く、一読して満足する、あるいはできるものではない。傍らにあり、何時でも、何度でも教えてくれる先生のような存在なのだと思う。

長男が産まれた時には論語から「徳あれば孤ならず、必ず隣あり」の語を贈り、初めて散髪した時の毛髪を筆にし、柄の部分に刻印してもらった。
同様に次男が産まれた時には陰隲録から「惟れ命、常に于てせず」の語を贈り、筆の柄に刻まれている。
私の行動規範となる言葉は法句経の「愛すべく色麗しくとも芳香なき華の如く、実行なき人の語は、善く説かるとも効果なし」だ。

また、最近「いいなぁ」と思う名文に出会った。それは酔古堂剣掃の中に出てくる
【硯田無惡歳、酒國有長春。】(硯田(けんでん)惡歳(あくさい)無く、酒國(しゅこく)長春(ちょうしゅん)有り)
という文だ。

この他にも酔古堂剣掃には、今日読んでも輝きをもって響いてくる素敵な文句がちりばめられている。この酔古堂剣掃にはちょっとしたエピソードがあるので紹介したい。

酔古堂剣掃は、明末期に陸紹コウ(コウ=王へんに行)(字が湘客)が同時代の名言・名句を編纂した書だが、ラジオたんぱか何かで聴いた安岡正篤氏の講話で興味を持った。何でも明治時代までは文人墨客をはじめとする多くの人々に愛されていたのに、昭和に入ってからはめっきり姿を消してしまったらしい。同時代の菜根譚呻吟語、幽夢影などは現代でも残っているのになぜ? そう思うとますます関心が高まったのである。

そして本屋を探してみると、先述の安岡正篤氏による講話がそのまま活字化された書籍が売られていた。これが今日新品で購入できる唯一の酔古堂剣掃である。しかしながら、この講話集は安岡正篤氏が、酔古堂剣掃の中で特に名句であろうという部分を抜粋、解説しているものであり、全体からすれば極僅かなものであることを知る。更に古本屋などを探し、明徳出版社から出ている「中国古典新書」シリーズに合山究氏による解説書があることを知るのだが、ネットや古本屋で探しまくるが一向に見当たらない。昭和53年に出版された後、数回増版されたらしいが、現在の市場には殆ど出回っていないとのこと。あきらめかけていたある日、ひょんなことからある男性に、私が酔古堂剣掃を探していると言うと「持っていますよ。もう読まないから差し上げます」というではないか!!(その方は「今の時代にはちょっと・・・ね」とおっしゃっていた)不思議な縁に感謝しありがたく頂戴した。

しかし、

合山究版には無い行を安岡正篤氏が講話している部分がいくつかあり、合山究氏の酔古堂剣掃も抜粋である事を知る。また、ほぼ時を同じくして台湾の老古文化事業公司から、全文(手書のものをコピーし製本したもの)が販売されていることを突き止めたのである。すぐにこれも注文し、三ヶ月程して手元に届いた。

こうなると不思議なもので、台湾の本の元になった手書き(和綴じ)版も大阪の古書店で手に入れることができた。もはやこれは博物館級なので大事にしまってあり、読むのは専らレプリカの台湾版だが。ただ、これらは当然の事ながら全てが漢文であるため、雰囲気はつかむことができても流石に解釈するには辛い。そこで、更に書籍探しは続く。

!!

すると京文社書店から発行(昭和九年)された大村智玄氏による講話を発見! こいつも即座に購入。

・・・

合山究氏の解説書よりは詳しいものの、やはり全文の解説ではなかった。諦めずに情報を集めていると、有朋堂書店から昭和三年に発行された塚本哲三氏による解説書が存在することを知り、日本全国の古本屋を片っ端から問合せた。そしてようやく大阪のとある古本屋さんに一冊在庫があることを確認! もちろん購入。手元に届いて驚いたのだが、この有朋堂版には「非売品」と印刷されていた。恐らく「○○○全集」のような形で世に出て、一般向けではなく、図書館や学校等に納められたものなのだろう。

と、なんだかんだ酔古堂剣掃だけで

安岡正篤著/安岡正篤先生生誕百年記念事業委員会(平成九年出版)
合山 究著/明徳出版社(昭和五十三年版)
大村智玄著/京文社書店(昭和九年版)
塚本哲三著/有朋堂書店(昭和三年版)
柳田イン(イン=虫へんに寅)可、小林星洲著/嵩山房(明治四十四年版)
笹川臨風著/聚精堂(明治四十三年版)
ほか(台湾版、手書和綴版)

が手元にある。簡単に書いたが、これらを入手するまでに5年ほどかかった。

酔古堂剣掃は菜根譚呻吟語、幽夢影などと異なり、作者である陸紹コウが気に入った(主に)明末期の詩人達の名言、名句を集めたものであり、要するに彼のオリジナルではないのである。また、描かれているのは自然への畏敬の念であったり、粋であったり、処世学であったりといろいろ。ある部分で散漫な印象が今日読まれなくなってしまった理由の一つかもしれない。もちろん戦争やその後の復興におけるプロセスで「それどころではなかった」ということも容易に想像できる。

冒頭、私が気に入っていると言った行のある一節を紹介すると、

ーーー酔古堂剣掃 第五「素」よりーーー
客過草堂問:「何感慨而甘栖遯?」
(客草堂を過って問う、「何の感慨あって而(すなわち)栖遯(せいとん)に甘んず)


余倦于對,但拈古句,答曰:「得間多事外,知足少年中。」
(余、于對に倦み、但古句を拈って、答えて曰く「間を得る多事の外、足るを知る少年の中(うち)」


問:「是何功課?」曰:「種花春掃雪,看録夜焚香。」
(問う、「是何の功課ぞ?」、曰く「花を種え、春雪を掃い、録を看て夜香を焚く。」


問:「是何利養?」曰:「硯田無惡歳,酒谷有長春。」
(問う、「是何の利養ぞ?」、曰く「硯田(けんでん)惡歳無く、酒國長春有り。」


問:「是何還往?」曰:「有客來相訪,通名是伏羲。」
(問う、「是何の還往ぞ?」、曰く「客有り來って相訪う、名を通ず是れ伏羲(ふっき)。」


ーーー

というのがそもそもの紹介のされ方となる。隠遁生活をおくる(優れた)人物に対して俗人がつまらん質問を浴びせ、それに対して古人の名句で切り返すという気持ちの良いワンシーン。知的ユーモアのある好例だと思う。

このやりとりだけでも朱慶餘の「贈陳逸人」、許渾の「茅山贈梁尊師」、唐庚の「硯田」といった詩人達の作品の一端を垣間みることができる(最後の「有客來相訪,通名是伏羲。」は誰の句の引用か勉強不足で分かりません)。

今から千年近く前の古人達の名言・名句が、今日でも活き活きと伝わってくる。私の先祖の中にもこの本を読んだ人物がいるのだろう。そう思うと時代を超越した愉快さ、趣を感じる。

今は、時間のある時に現代語版での解説を原典対照で編纂している。